先日、ラジオNikkeiの特別番組に参加してきた。結論からいえば、珍しくちょっとメゲている。
事前に、番組内容の概略を調べて……本来あるべき議論(2011年7月以降に地上波テレビで空いたVHF帯を利用してデジタルラジオ放送をやるといっているが、本当にそこに未来があるのか?)を行うべきだ、という意見を持っていた。
そもそも、ラジオとは何かといった場合に……
・電波を送信するためのインフラ
・ラジオ放送を聴取するための手段としてのラジオというハードウェア
・音声コンテンツであるところの「番組」
という3つに議論を分ける必要がある。
■放送インフラの現状
老朽化のために、そろそろ機器更新を行わなくてはならないという状況。機材の更新に20億円ほどかかると試算されているが、そんなお金がどこから出てくるの? という状況。従来のアナログラジオ放送のインフラを維持するだけでもお金がかかる。
しかも、もし仮に機材を更新できたとしても、「くぼ地、雷、在日米軍」と言われるとおり、特定の地域や特定の気象状況下ではラジオ放送が聴取できない。さらに、都心部でもビルの影になるなどして聴取不能な地域が多数存在する。
■ラジオというハードウェアの現状
ラジオを持って歩いている、という人はよほど探し回らないと見つからないことだろう。ことに、電車の中でラジオを聴いている人など見たことがないし、地下鉄の中ではなおさらだ。
ラジオというハードウェア自体は家電量販店には置いてあるが、早晩アナログレコードのプレーヤーと同じような扱いになることは想像に難くない。
■音声コンテンツ(番組)の現状
ラジオの番組自体は、制作しようとしてもノウハウの塊で素人がおいそれと行えるものではない。映像よりもはるかに難しい。
番組内容については、テレビ番組ほど腐っていないし、ラジオ番組自体がなくなってしまっては困る、と個人的に考えている。ただ、いい番組を作っても……聴取環境がない(ラジオを持っていない)とか、電波が入らないとか、そもそもリアルタイムに放送を聴取することがライフスタイルの変化(メディアに対する可処分時間の大幅な減少、電車による移動時間ぐらいしか番組の聴取時間がない)により、ほぼ不可能といってよい状況になりつつある。
さらに、ラジオ業界を管轄する総務省の方針が、高度成長期のやりかたを踏襲するばかりで工夫も何もあったものではない。
「地上波テレビ放送の停波で空いたVHF帯でデジタルラジオ放送を行う」
の一本やりである。従来のラジオ受信機が使えなくなったら、人々が新しいデジタルラジオを買うと信じているようだ。
買わない。デジタルラジオなんてものをわざわざ買わない。
これが、ラジオ業界の中にいる人にも、外にいるわれわれにも「レミングの集団自殺」を行っているように見えて仕方がない。
このあたりの議論(さらに、音声メディアの持つ可能性)を、番組中で突っ込んでおかなくては……という危機感を持ち、ディレクター氏にメールを書いて番組に(客席で)参加させてもらったのだが、われわれは「ラジオの現場」でこうした議論が行いにくいことを体感してしまった。
ラジオの番組は、台本にしたがって進行される。台本に一字一句書かれているわけではなく、前半部分とエンディングぐらいしかその内容は決められていない。ゲストコーナーでは、ゲストが思い思いに話をすることになる。
2時間の番組で、1時間強は台本にしたがって進行していた。ゲストが呼ばれた後半部分ではゲストが思い思いにトークを展開し、その中からラジオの未来について展望が展開できるか……というところだったのだが……
現場の空気を生で感じると、なかなか話の方向を変えるのは難しいと言わざるを得ない。単なる客席にいる参加者では、議論の向きを変えたりできない。たとえば、自分らがゲストとして呼ばれているのであれば、まだまだやりようもあったのかもしれないが……相棒が割とまとまった話をしたが、ゲスト席の空気が凍っていた。
ラジオの放送時間は決められている。その限られた時間の中で、帳尻を合わせて時間どおりに番組をまとめるというのが、ひじょーーーに困難で技術を要するものだということが、ヒシヒシと痛いほどに感じられた。
つまり、「時間どおりに終わらせること」が至上命題であって、「内容は二の次」という印象を強く受けたということだ。
もう、その痛い空気にやられてしまって、自分も「こういう話が求められているんだろう」的な読みから、無難なコメントに終始してしまった。空気を凍らせてでも自分の意見というか発言を貫いた相棒にはなはだ申し訳ないのだが、「もはや、番組に参加していたという『証拠作り』を行っておくぐらいが関の山だ」という判断を行った。
こちらも、ラジオ現場のビギナーであるし、ゲスト席まで攻めて行くようなことはできなかった。十分に攻めて行けない「壁」を感じ、今回は見学者という立場に終始しても仕方がない、と判断。バリバリに攻めに行った相棒の「勇気」をひらすらたたえたい。
本質的な議論が行われる様子もなく、ただゲストが話したいことをベラベラと話しているだけの進行に陥って、どういうコメントを行っても、ゲストが話したいことしか話さないわけであるし、一人のゲストが長々と話して、他のゲストにあまり話が回っていなかった。このあたり、そもそものゲストの人選に問題があったように感じる。
なんというか、「予定調和」というゴールに向けて時間内に走り切る生放送のラジオ番組というのは、文章書きのような純粋な知的生産活動とはまったく異なり、またプレゼンテーションのような作業とも異なる種類の、ひじょーーに修練を必要とする肉体的な労働の場であると感じた。場数を踏まないと、話題を強引に転換させるとか、そういう作業は難しいものなんだな~と痛感した。
ただ、ラジオ番組やラジオ現場の問題点も強く感じた。用意された結論に向けて予定調和的に進行する「慣性」がひじょうに大きい。つまり、現場で何か発言を行って流れに介入しようとしても、修正されたり無視されたり、場合によっては編集されたりする可能性もあるわけで……番組の企画段階から口を出す状況にあるか、あるいは自前で番組を企画して、自分の影響下で話題なり議題なりをコントロールしなければ不十分だ、ということだ。
そうした、まともな議論の「場」を作らないと、きちんと議論を行う番組など成立しようがない、と痛感した。
相棒とも話をしていたが、漠然と「ラジオの将来」といった議論を行うのは……対象が漠然としすぎており、大きすぎる。もっと、対象を細分化して議論を行わないと、どういう立場の人がどういう方向で、どういう話をしているのかがまるっきり分からない。
番組中、twitterでさまざまな自分の意見を出しておいたので、followerの方には(本当に言いたいことが)分かっていただけたのが、せめてもの救いといったところか。今回はひたすらダメダメな自分であった。