1月14日の大相撲中継では、デーモン小暮閣下がふたたびゲストに登場するとのことで、ひっっじょーに期待している。博識であり、話が面白く、相撲に対する熱意がある。力士にインタビューまでこなす。こんな理想的なゲストはなかなかいないだろう。
さらに、今回は「ゲスト」ではなく「解説者」として登場するそうで、やはり「ゲスト」などという呼称は彼にとっては(本来の意味での)「役不足」にあたる。
自分が某国営放送の人と仕事の打ち合わせをした際に「あれは面白かったですねぇ〜」と話を切り出したのだが、担当の人は「あんなのは邪道」とそれほど(個人的には)評価していないようだった。ああ、実に残念……と思っていたところに降って湧いた再登場。実に楽しみである。
そんなこんなで、昼食をとりながら職場の同僚と「大相撲の窮状を救う打開策」について話していた(正確にいえば、1人で勝手にぺちゃくちゃしゃべっていただけだ。うむっ!)。「近い将来のデーモン小暮閣下の横綱審議会入り」については同意を得たものの、それ以上の打開策を見いだすことはできなかった。
市場規模や購買力を考えたときに、「おおきなおともだち」の存在は外せない。そうした層にアピールすることも重要だろう。これにも同僚の同意を得たが、実際にはどうしたらよいのだろう?
だいたい、大相撲にはこうした展開を行う上で困難な「女人禁制」という仕様が存在する。このため、安直な「萌え」「セクシー」路線の採用が事実上不可能なのだ(具体的に「萌相撲」という青写真があるのかどうかは、頭がおかしくなりそうなので考えないこととする)。
ならば、ムシキングのよーに「力士育成シミュレーションゲーム」を開発。さまざまなペイントを施したカラフルな力士を通信対戦で戦わせるのだ。そして、実際の土俵にトーナメントで勝ち上がった力士のペイントを施した本物の力士が、そのゲーム中の名前で登場するのである。実際に自分の育てた力士が勝利すれば懸賞金は仲良く山分け。
おお、競輪/競馬/サッカーに公式賭博行為が整備されているのだから、相撲にもそのような仕組みを導入すれば、人気回復にも役立つのではなかろうか? だが、これについては「国技」ゆえの格式がそれを許さないだろう、との指摘があった。
うううむ、もともとの成り立ちは別に格式も何もなかったはずなのに、ほんの400年ほどの間にそんな社会通念ができてしまうとはつまらないものだ。もっと、みんな相撲の生き残りについて真剣に考えてほしいものである。だいたい、国民がぜんぜん日常生活のなかで経験したことのない競技を「国技」とすること自体に無理がある(いっそ、誰もが経験したことのある「ドッジボール」とか「綱引き」を国技にしてはどうだろう?)。
あまりハードな路線に走らず、ソフトな路線に走ってみてもよいだろう。そうだ、ビジュアル系路線だ。色白で細身・茶髪のビジュアル系力士を育成するのだ。高齢の御婦人層は外国人力士を好ましく思っていないようなので、やはり日本人で。そして、颯爽と登場した日本人のビジュアル系力士(色白、茶髪、細身)は相手の強豪力士の相次ぐ不可解な敗北によって、あれよあれよとスターの道を駆け上るのだ。
同僚たちの白い目が私を襲う。口には出さないが「そんなん力士じゃねえよ!」「たわけが!」「このカス!」と顔に書いてあるではないか。
頼みの異種格闘技戦路線は、すでに「まけぼの」という先駆者によってその可能性が否定されている。
……とすれば、やはり大相撲はニホンという狭い枠を飛び出して世界中の有望な若者をスカウトし、各国に相撲道場を開設。世界中の“Rikishi”にトーナメント戦で蔵前国技館を目指していただく(優勝賞金をかけて戦うのだ)。もう、肌の色とか国籍とか、そういうものを問わずに世界中の人に楽しんでもらえる存在を目指していただくのだ。空手みたいに。
……冗談はさておき、だいたい「カラダが大きければ勝つ」現状に対しての解決策が提示されていないのはおかしい。精神論だけではいかんのである。
ボクシングのような重量別階級制や、ゴルフのようなハンデ制(重りをつけるとか、拘束具をつけるとか)なども検討されてしかるべきではあるまいか?
ちょっと昔に、お笑い芸人の相撲大会を深夜時簡単にやっていて、かなり面白かったように記憶している。相撲を相撲界にかぎらず、裾野を広げていくような仕掛けを行うことが重要と思われるが、いかがなものだろうか?