技術、デザイン、ビジネス、政治

自分が買う本というのは、技術書よりもビジネス書だったりアイデアやデザインに関するものが多い。

技術書よりもデザインの本から吸収できることが多いというのは、あくまで個人的な情報量の問題だ。デザインというものは、きわめて言語化して説明することが困難なシロモノだ。だが、伝えるためには言語化が欠かせない。このため、デザイン論的な本は1冊あたりのエッセンスの情報量がどうしようもなく少なくなる宿命にある。おまけに、義務教育でデザインを教えている学校など、自分が知るかぎりでは存在しない。

ただ、何が「足りない」かについては個人差がある。「栄養的にすぐれた食事」というものが特定栄養素への偏りではなく「バランスのよさ」を意味するのと同様、人の思考の栄養となる「知識」についても、ある程度のバランスのよさが必要なのだろう。

技術、デザイン、ビジネスの3系統の知識をバランスよく取得することは難しいが、本来これらのジャンルに偏りがあることは望ましくない状態ではないかと考えている。さらにいえば、「ビジネス」の上位概念として「政治」というものが存在するわけだが、日本で政治という言葉は非常に矮小な地縁的利益誘導行為ないしは他者排斥行為を指すように感じている。いじめを行ったり仲間はずれを作るための道具に見えてしまうのだ。

ビジネスにおいて、実施段階の戦術的行為の錬度を高めることは当たり前に必要とされることだが、戦術段階以前の戦略レベルで過ちがあった場合、その戦略的劣勢を逆転することは難しい。戦術レベルでの勝利を積み重ね、上層部の戦略を転換させることも不可能ではないが、多大なる労力を伴う。分かりやすくいえば、それでは効率が悪すぎるのだ。

政治はこの戦略をさらにスケールアップして効率よく行うことを可能とするものであるべきだが、なぜかこの分野ですぐれて芸術的な作品を日本国内で見ることができないでいる。ヨーロッパや中国の政策で、その視点の大きさに度肝を抜かれるものはあるが、日本国内では貧弱な想像力と小児的軽薄言語表現や硬直化したシステムに落胆させられることばかりだ。

少々乱暴で大雑把な話にはなるが、学力や政治力ばかりが偏重される「システム」そのものに問題があるのではないか? アイデアやデザイン的な要素、あるいは技術的な知識抜きの政策論議というものにどの程度の現実味があるのか? 政治を具現化することが目的である官僚組織の内部に組織内政治的センスが求められるのだとすれば、そのぶん本質論や技術論、あるいはデザインを論じるべき時間というものは減ってしまうだろう。

デザインというものは、知識やアイデアを具現化する、すぐれて直裁的な手段だと思っているし、デザインという行為の持つ有形無形の力を信じている。

だが、デザインはビジネス的な発想なしに成立することは難しい。先を読む嗅覚を鍛えるのに必要なのは技術的知識とビジネス的な知識や経験だったりする。デザインやアート的な感覚を伴わない分析には滑稽さがつきまとう。そして、政治的な制約やタイミングというものを逸してしまえば、せっかくのデザインの力も発揮できないままだ。

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