PDA(携帯情報端末)という製品ジャンルがある。昔から鳴かず飛ばずで、これといって大ヒットした製品というのは聞かない。バブル期に電子手帳が流行りかけたことがあったが、いまひとつメジャーになりきれなかった感がある。
というのも、そもそもPDAという製品ジャンルそのものの(マーケティング上の)コンセプトに間違いがあったから、なのではないかと考えている。
そもそもPDAというのはAppleがNewtonのために作った言葉であり、その他の製品は本来PDAとは言ってはいけない。アシストしてくれないからである。
※自分たちのチームで作っている「Newt On」はこのアシスト機能をMac OS X上に実現・発展させようというものである。ヒトの言葉を理解して、アプリケーションを動かすというのがその内容である。
そこは100歩譲って、他の製品についても「携帯情報端末=情報を入れて持ち歩ける入れ物」という意味において、ここでは便宜上PDAと呼ぶことにする。
その他のPDA製品は、純粋に「データの入れ物」「ソフトウェアプレイヤー」「持ち歩けるインターネット端末」の方向に進化したように思う。いや、それは「進化」というほどのごたいそうなものではなく、半導体製造技術の進歩にただ流されて、CPUが速くなってメモリが大きくなって、画面がカラー液晶になったというだけの代物といって差し支えない。CPUパワーや記憶容量を上げようにも、バッテリーによる物理的な制約に苦しめられてきた、という見方もできるかもしれない。
PDAファンの人からは石を投げられそうな話だが、いわゆるPDAと呼ばれている製品というのは、実は、
実用性を追求してはいけない
のではないだろうか? 人に見せびらかすとか、格好つけるための小道具というのが、このジャンルの製品の「本質」なのではあるまいか?
ド派手なインタフェース、意表をつく効果音。そして、宇宙人のテクノロジーで作られているのではないかと錯覚するほどの斬新な筐体デザイン……といったものが必要なのではないだろうか。
知り合いがザウルス用にデスクトップマスコットを移植して使っていることを風の便りで知ったが、実はものすごく正しい方向なのではないかと感心した。パソコンでそんなものを使うのは、実用的でない。何の役にも立たない。でも、PDAならそれもアリだろう、ということなのだ。
PDA(のインタフェース)というのは、積極的に「遊び」を入れて、デザインに凝りまくったものを入れて、インタフェース(スキン)のカスタマイズが行えるようになっていてしかるべきではなかろうか(ちょうど、MP3プレーヤのソフトのように)。外側の外装も、取り替えできるとか……そういう思いっきりミーハーな方向性を追求した製品があれば、持ち歩いて使ってみたくなる。
SONYのClieは、本家のPalmとは比べものにならないぐらい、カラフルでクールなインタフェースを提供している。実に正しい方向性といえる。ただし、まだ何かひとつ吹っ切れていない感じもするので、「これって、元は何だったんだろう?」というぐらい独自でクールな世界観を構築していただきたい。アイコンがアニメーションしまくって、画面が派手に切り替わりまくって、メニューやダイアログがうにょうにょ動きまくるのである(だんだん、何を書いているのか分らなくなってきた、、、)。
大学の卒論ではPDAの市場について、分析というほど大したものではないが、かなり真剣に考察を行ってみた。結局、実用性を求めようとすれば、本体に拡張スロットが必要になり、拡張スロット数の物理的な制約から、ユーザーの複数のニーズを同時に満たすことはできず、パソコンの代替品としての展開は無理。PDA本体内にすべてを抱えるのではなく、ネットワーク上のサーバー内にデータやアプリケーションを置くべき、と結論づけていた。ちょうどiモードのような概念が必要、と思っていた(今から14年ほど前の話だ)。
高速な無線インターネット接続が、普遍的に利用できるようになった暁には(いわゆるユビキタス社会)PDA本体は単なるデータ受信機+ちょっとしたバッファ程度でよくなるのかもしれない。PDA本来のポテンシャルを発揮するには、社会的なインフラの整備が必須といえるだろう。
……ただ、個人的にはPDAというジャンルの製品にはまったく興味がなくなってしまった。いつもPowerBookを持ち歩いているので、ことさら追加でPDAを持つ必然性がないからである。
すべてのデータとアプリケーションと開発環境とプレゼン環境を持ち歩けなければ、結局のところ意味がない。おまけに、常時Newt On(の試作品)を起動してあるので、電車の中で「今週の予定って?」とか「来週の週末の予定を表示」と、思いっきりPowerBookにアシストしてもらっている状態だ。