編集者という「キャリア」

編集者として育つと、編集者としてしか「つぶし」が効かない場合が多い。新聞社系はどうだか知らないが、雑誌編集現場はひたすらガテン系仕事なので、職位がどうのといった人事考課スタイルは確立していない場合が多い。そのまま、他の事業部に異動したりすると、いきなり降格扱いになってかなり不利である。

編集現場というのは割と偏ったスキルが求められるので、他の部署に行っても使い物にならないという場合が多いのだろう。いきなりPowerPointでプレゼン資料を作って説明しろ、と言われてびっくりしたことが思い出される。記者発表資料や記者会見の内容にケチをつけたことは何度もあったが、自分で作ったりしゃべったりするのはとてもおぼつかなかった。

あの時にたいへん悔しい思いをしたので、人前でしゃべるための訓練や努力をするようになったのだろう。

場所にもよると思うが、編集はほとんど人事異動がない。よほど問題があったか、新規媒体を作るといったことがなければ異動はない。

UNIXの雑誌(UNIX USER)にいたのだが、もうちょっと興味の持てるジャンルの編集部に移りたい旨希望を出していた。しかし、ほとんど何も状況が変わらない。情報のインプットを行う余裕もない中で毎月毎月すり減っていくと、人としてとても「終わった」感が濃くなる。新しいことに興味を持てなくなったり、理解力が落ちたり、注意力が散漫になったりで、たいへんよろしくない。

ジャンルにもよるが、自分のいた雑誌などいま書店で読んでみても自分がいた頃と本質的には何も変わっていない。自分で企画を立てた連載記事がまだ続いていて驚いたりする。

毎月同じことを繰り返すことに疑問や憤りを感じず、続けられるというのは一つの才能だろう。自分にはとてもマネできない。


かくして、木曜日に書籍の打ち合わせで編集者と会ってくることになった。ライターとして編集者と接するというのは久しぶりだ。

編集能力自体は割とどこでも必要とされる。編集者が引く手あまたである、というわけではない。編集現場を経験したことは決してマイナスになってはいない、と感じるのだ。

世の中に、編集というプロセスを経由しないで出て来る情報は少ない。どんな素材であれ、それを編集した人間の考えは反映される。プログラムやWebだってそうだ。

とりあえず文章を書くことに苦痛を感じたことはない。日々当たり前のように駄文を書きなぐっているが、テーマさえ決めれば文章にはなる。当たり前のことのように感じているが、やはりそれは得難いことだ。編集の経験は無駄にはなっていない……んじゃないだろうか。

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