大阪城、空を飛ぶ

いつのことだったか、相方(彼女。現在の奥方様)と電車に乗っていたときに、ふと大阪城の話になった。しかも、のっけからとんでもない展開である。

相方「 ねえ、大阪城って、実はジェット噴射して空を飛べるんだよ」
自分「無理だ、そんなことは出来ない」
相方「どうして?」
自分「バランスが悪い」
相方「バランス??」
自分「いいか、大阪城はこういう形をしているんだ。これが空を飛んだ時に、重量バランスが悪くて自由に飛行することは難しいだろう。空力抵抗を考えても、無理だ。だから空を飛べない」
相方「……」

そのままだと、まるっきり火星人と土星人の会話みたいなので、カッコで意図するところを補足すると、このようになる。

相方「 ねえ、大阪城って、実はジェット噴射して空を飛べるんだよ(冗談)」
自分「無理だ、そんなことは出来ない(断言)」
相方「どうして?(少しぐらいあいづち打ってもいいじゃない)」
自分「バランスが悪い(断言)」
相方「バランス??(何いってんの、こいつ?)」
自分「いいか、大阪城はこういう形をしているんだ。これが空を飛んだ時に、重量バランスが悪くて自由に飛行することは難しいだろう。空力抵抗を考えても、無理だ。だから空を飛べない」
相方「……(勘弁してよー)」

初めて会った時にも、とんでもない話のオンパレードであった。

私は相方を前にして、「関西における納豆を食べる地域の分布と源氏・平家の勢力分布に見る符合性」とか「江戸時代にまでさかのぼる、うどんとそばに見るマーケティングの違い。いかにしてそばは高級品として差別化しえたか」「真夏に大型犬と10数キロ歩いて勝負して勝った話」などを延々としていたらしい。

のちになって、これらは「井の頭公園 そば、うどん、納豆、犬の戦い」と呼ばれ、恐れられた。

相方「普通、大型犬と『勝負』して『勝つ』なんて話はしないよね」
自分「あれは苦しい戦いだった。犬の行きたいように歩かせていたら、山道をえんえん歩きまくって、最後には山道の行き止まりまで行った。そこでぐるぐる犬が回り出したので『こいつ、帰る気ないんかい!』と真っ青になった。あとは、自分が犬を引っ張って、もう人間の本能の力だけで知人の家まで戻った。土地勘もない、住所も覚えていない、携帯電話も置いてきた、朝飯前の軽い散歩と思っていたから財布もない……という環境で、いくつも山を越えてよく戻ってこれたもんだとわれながら感心した。長野県の山中で、どうして戻れたのかいまだもって奇跡としか思えない。これを勝ったといわずして、何を勝ったと呼ぼうか」
相方「はいはい」

あえて文章にしてみるととんでもない話のオンパレードである。相方と自分のどちらがとんでもないのか。こうして見ると、かなり自分の分が悪いようである。


思えば、こんな自分に多大なる影響を与えたのは、家の近所のアパートに住んでいたおっちゃんであった。一言であったにもかかわらず、その言葉が自分に対して与えた影響ははかりしれない。

ほかにも、小学校に入る前に父親から人生を左右するほどの一言を経験しているのだが、それについてはまた別の機会に譲ることにする。

話を元に戻す。そのおっちゃんは実家のすぐ近くに住んでおり、時折姿を見かけた。肉体労働系の仕事についているらしく、また、日中から酒で顔を赤くしている(と、当時の自分は思っていた)人物であった。日に焼けて赤ら顔だったのかもしれないが、そうであれば顔は黒くなるはずだ。

自分の実家のそばには電車の線路が通っており、踏み切りも家から見える場所にあった。東京郊外ののどかな光景だが、年に数度、踏み切りで大騒ぎが発生することがあった。電車が立ち往生して動けず、踏み切りが数時間閉まりっぱなしになるという事件だ。踏み切りの警告音はひたすら鳴り止まず、どこからわいて出たのかというぐらい、踏み切りの前は車や人や自転車やバイクや野次馬でごった返した。

当時小学3年生ぐらいだった自分は、部屋の窓から見ているだけでは飽き足らず、踏み切りまで見物しに行くことにした。踏み切りの手前で動かない電車。鳴り止まない踏み切り。進行方向にあたる駅には同じ線路上に別の電車があり、これがなぜか動かない。非日常的な光景に、なぜか心躍らされるものがあった。

そこに、なぜか例のおっちゃんがいて、自分に話しかけて来た。

 「ボウズ、あの電車がなぜ駅に入れないか分るか?」

彼は、踏み切りの手前で止まっている電車を指差して、自分にそう尋ねたのだ。

 「電気系統の故障か何かでは?」

子供にしてはコ難しそうな答えをした自分。しかし、次の瞬間、おっちゃんの言葉に打ちのめされた。

 「ありゃあな、前の電車が動けないから駅に入れないんだ」

なんということであろうか。すべての状況を正確に判断し、それでいて誰にでも分る単語で構成され、一分の隙もない完璧な言葉であった。

その本質を突く言葉の前に、自分の愚かさ、浅はかさを心底恥ずかしく思った。ショックでしばらく口が聞けなかった。日中であるにもかかわらず、目の前が真っ暗になった気がした。

しばらく放心状態にあった自分が、はっと気を取り直した時にはおっちゃんの姿はなかった。それ以来、彼の姿を見かけたことはなかったが、あの時の衝撃は今でも忘れない。目の前の現象を表層的に表現するのではなく、物事の本質を突く表現こそが真に正しい表現なのだ、と。

たとえば、冷蔵庫の本来の役割を考えるときに、「モノを冷やす」というのは表層的な見方であって、本質的な見方ではない。モノを冷やすことによって生鮮食料品の腐敗を防ぎ、長期間の保存を可能にする、というのが「本質」である。コーラやウーロン茶を冷やしたりするのは、あくまで副次的な役割だ。

ただ、幼少のみぎりにそのような悟りを得た自分が、なぜ今日ヘリクツの塊になっているのか、それはまったくの謎である。

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