昨日は書いているうちに、笑点やら何やらのわけの分らない方向になだれ込んでしまった。本当は、こういう内容が書きたかったのだ。
自由とはどういう言葉であるか、それは選択肢が存在していて、そのうちのいずれかを選択できる状態にあるということだろう。広辞苑があれば引いて調べるのだが、あいにくここに広辞苑はない。
しかし、選択肢が無数に存在している場合、そこから選択するのに大きな迷いが発生する。すべてのパターンについてシミュレーションが行えればよいが、無限に存在する可能性すべてに対してシミュレーションを行うことなど不可能である。
つまり、無限の可能性というものは無限の不可能性に限りなく近いということになってしまう……。
だが、実際にはそんなことはない。選択する側に「意志」や「嗜好」があるわけで、無限の可能性のうち、そのレンジに収まるものが選択対象になる。
地球上の全人口40億人の半数は女性で、適齢期にある女性をざっとその5分の1にしたとしても4億人近くいる。そのうち、会える可能性のある人間が……などと考えることなどないのであって、「オレはおっぱい星人だ!」という嗜好があるとすれば、そのレンジに収まる中で付随的な条件に合う女性にアタックすることになるはずだ。
しかし、現実的にはそれすら難しく、「身の回りにいる女性」の中で好みに合った人がいればアタックするということになるのだろう。それとて成功する確率の方が低いわけだが……。
ナンパの確率論の話をしているわけではなく、無限に可能性が存在するとしても、実際にはかなり狭い範囲の選択を行っている……ということと、狭めるためのファクターがなければ選択の範囲が広すぎて意思決定が行いにくいだろう、ということだ。
つまり、なるべく「こういう方針で行きましょう」と提案を受けたほうが考えやすく、その中で独自の展開やあっと驚く発見などを紹介できるに違いない。
……………………自由とは不自由である、という屁理屈をこねているだけでなく、そこで議論を積極的に行うべきだったろうかと反省する。
編集者:何か面白いのをお願いしますよ
MARo:一般受けするのは無理です。Macユーザーが笑う、というぐらいなら
編集者:まあ、そんな感じでいいんじゃないでしょうか
MARo:Macintosh悪魔の辞典というのを考えておりまして
編集者:ほうほう?
MARo:社内の担当者レベルのきめ細かな情報を
編集者:それは、出版できないでしょう
MARo:そうですよね(汗)
広がらずに終わってしまった。多分、酒が入っていなかったせいだろう。